老舗タイ式マッサージ店
新橋駅前SL広場より徒歩3分

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  • プロフィール
寛文7-元禄14(1667-1701)。赤穂5万3500石、第3代藩主。元禄14年、勅使饗応役を命ぜられましたが、式典のハイライトである饗応4日目の3月14日(旧暦)、城中の松廊下で突然小刀を抜き、饗応指南役の吉良上野介義央(きらこうずけのすけ・よしなか)に斬りつけるという事件を起こしました。これにより長矩は即日切腹、浅野家はお取り潰し。一方の吉良側は、おとがめなし。この処分に対して遺臣が起こしたのが、世に言う赤穂義士(赤穂浪士)の討ち入りです。

  • 港区とのかかわり

赤穂藩主、無念の切腹の後に泉岳寺へ

浅野内匠守長矩がなぜ刃傷沙汰に及んだのかについては謎が多く、当時からさまざまな説が言われてきました。しかしいずれにせよ、事件に対する幕府の処分は前例のない厳しさで、充分な吟味もないまま長矩は田村右京大夫建顕(たむらうきょうだゆう・たてあき)の上屋敷にお預けとなり、即日切腹。遺骸は夜半、遺臣の手によって泉岳寺に運ばれ、埋葬されました。

辞世の句は「風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん」。元禄14年3月14日は新暦でいえば4月21日。遅咲きの桜花が風に舞う、晩春の出来事でした。

現在、新橋4丁目の日比谷通り沿いに「浅野内匠頭終焉之地」の碑が建てられていますが、これは昭和15年(1940)に町内会(当時の町名は田村町)の有志が紀元2600年を記念して建てたもので、側面には「自刃後二百四十年記念」の文字も刻まれています。なお、元禄時代の田村家上屋敷は、この碑のある場所より50mほど東にありました。

◎参考文献『コンサイス日本人名事典』(三省堂)
『忠臣蔵とは何か』(丸谷才一/講談社)
『日本史の巷説と実説』(和歌森太郎/河出文庫)
『忠臣蔵の謎』(尾崎秀樹編/講談社文庫)

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笑顔と技術の港区新橋タイ式マッサージ老舗店(創業15年)

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